ドイツの国立音大への道のり(4) – 新しい旅立ちの準備
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私立学校の通知
それは2022年12月中旬のこと。大変な仕事を終えた夜に届いたメールだった。
「メールと応募ありがとうございます。2023年夏学期からピアノクラスでの学習を開始できることを確認いたします。」
「やっと… ここから出られる。」と心の中で呟いた。
11月と12月は非常に辛い期間だった。二週間以内に伴奏曲を20曲仕上げなければならず、事務的な仕事で手一杯の中での無茶な要求だった。
そのため、学校からの合格通知は、その日の夜、疲れ切った私にとって最大の癒しとなった。
帰りのタクシーの中で、これからドイツでどんな挑戦が待っているのか、この土地を離れた後の家族や友達との関係について思い巡らせた。それでも歴史や音楽が豊かなドイツに行けること、一年間ずっと指導してくれた教授と対面授業ができることに対してワクワクしていた。
新たな挑戦と別れ
年が明けて数日後、退職届を提出し、3月下旬にはドイツに渡る準備を始めた。
まず部屋の片付けを始め、ドイツに持って行く日用品や現地で手に入れにくいものをリストアップしていた。それに多くの友達と会い、送別会を開いてもらった。大変な仕事を辞めてホッとするはずが、時間に追われて忙しかった。
急遽のリサイタル
今思い返すと、少し無茶な決断だったかもしれないが、3月の初めに急遽送別リサイタルを渡独する1日前に開くことにした。当時(今もだが…)チャレンジ精神が旺盛すぎたため、準備不足でも他人の前で演奏し、経験を積みたかったのだ。そこで急遽小さなステージ会場を借り、パッキングの準備と並行して演奏会の準備を始めた。
当時演奏したプログラムはこちら:
- ショパン: 練習曲集 Op. 10 & 25 より
- Op. 25-1 変イ長調
- Op. 10-3 ホ長調
- Op. 25-5 ホ短調
- Op. 10-5 変ト長調
- Op. 25-9 変ト長調
- Op. 10-9 ヘ短調
- Op. 10-10 変イ長調
- Op. 25-10 ロ短調
- Op. 10-12 ハ短調
- Op. 25-12 ハ短調
- ラフマニノフ:
- Op. 23-7 ハ短調
- Op. 32-10 ロ短調
- 練習曲 Op. 39-1 ハ短調
- シマノフスキ: 変奏曲 変ロ短調 Op. 3

リサイタル当日
今振り返ると、これらを選んだことを少し後悔している。そもそもエチュードを十曲以上やる度胸はどこから来たのか、自分でも疑問に思う(笑)。ピアノを集中して練習し始めてからわかったのだが、このプログラムをよく演奏するためには最低でも数ヶ月の練習が必要だ。もちろん、このプログラムの曲は数ヶ月以上練習していたが、リサイタルで演奏できるほど仕上がっていなかった。しかし、無茶なことをしてドイツへの旅立ちの準備をし、それ以外の時間をリサイタルの準備に捧げた。
演奏当日は思った以上に多くの友達や親戚が来てくれた。2年以上コロナ禍で人前でソロ演奏することがなく、久しぶりの緊張感があった。そして久しぶりに会った人々から「痩せたね!どうしたの?」と言われた。きつい仕事と早起き、ピアノの練習の結果だった。
演奏は自分の目から見て酷いものだった。前半は集中力を保てたが、後半はミスが頻発し、シマノフスキの変奏曲では暗譜が飛んで即興せざるを得なかった。おそらく当日の演奏を教授が聞いたらゾッとするだろう。
それでも観客は感動し、涙を浮かべる人もいた。
「本当に素晴らしかった。」
…え、マジ?
確かに過去の演奏会でも、どれだけミスタッチや暗譜が飛んでも、「感情的で感動した」とか、「演奏に集中できた」といった反応をもらった。
演奏の無惨さで悔しい気持ちもあったが、リサイタルの最後には多くの花束をいただき、喜んでもらえたことを嬉しく思った。
コンサートの最後にこう言った。「皆さんのおかげでここまで来ることができました。皆さんの支えがなかったら、ここまで粘ってピアノを弾き続けることはできなかったと思います。」この言葉は今でも強く感じている。自分の努力もあったが、他人の支えがなければ、ドイツでの留学には至らなかったかもしれない。
出発の日
そして、旅立ちの日。
リサイタルの準備に時間を費やしすぎて、荷物の詰め込みが終わらず大変だった。多分空港へ出発する30分前にようやく終わったと思う(笑)。それでもなんとか間に合わせ、順調に空港まで向かった。その時も親戚がサプライズで見送りに来てくれた。
飛行機に搭乗し、ため息をついてターミナルから離れて行った。エンジンが掛かり、滑走路を走り出した。
離陸前にこう呟いた。「みんな、ありがとう。」
